あなたの幸せ
あなたの幸せ
心が幸せを作る
「この法話は、宮城県仙台成田山で対面無料占いを行う、根本的な方針になっているものの1つです。宮城県仙台成田山へ対面無料占いを申込みを考えている方や、対面の無料占いをお願いしようと思っている方は、このような主旨に目を通して、対面の占いのお申込みを考えていただければと思います。」
仏教は人生を送るにつき非常に役に立つものです。
今は一昔前と違ってお釈迦様にすがることが中心のものもあります。
そして、何とかお釈迦様の智慧を授かろうとするものです。
そのような方でもお釈迦様はお救いになります。
このように、同じ宗教でも今の仏教と昔の仏教ではとらえ方は違いますが根本は同じです。
いずれの立場に立つにせよ必要なことを準備しておくことは大事です。
これは仏教以外でも同じで、さまざまな点に対して応用がきくと思います。
その仏教とは人生を豊かにするためのツールとしてはとてもすばらしいものです。
しかし、人生は失敗の連続で成り立っています。
その失敗の原因を分析することで、次はそうならないようにしていくことが重要です。
当然のことですが、それをやらないと次にも同じ失敗を繰り返すということになってしまいます。
その失敗をすることは人生を乗り越えるには非常にいい経験となるため、それを敬遠せず向き合っていくべきでしょう。
むしろ、そのようなときの解決方法を持っていないと生きるのは難しくなってしまいます。
ただし、仮に解決方法を持っていたとしても漠然としている場合ではあまり意味はないのです。
だから、生きるための方法の教示は必要になってきます。
まず、先のことはあまり考えず自分の今のまわりの環境に目を向けなければなりません。
「現在」のほかに「過去」と「未来」があります。
それぞれ異なるものであるため未来のことだけを考えていては現在が成り立たないことがあるからです。
また、仏教だけでなく世の中全体もそうであるといえますが、仏教では師匠と弟子の関係は特に重要になってきます。
多くの人は親子の関係が最も強い(特に日本人は子供のことを非常に大事に思う傾向が強い)と思っていますが、仏教的考えからすれば必ずしもそうではないのです。
そして、さらに重要になってくるのが「空」という言葉と「有」という言葉です。
まず、前提として今苦しんでいる人も「空」という言葉の意味がわかればその苦しみから解放されます。
「空」とはまず宇宙の真理を意味し、多くの関係とのかかわり合いでできています。
また、これは実体がないものです。
私たちが仏教的なものに限らず一般的にこの世で生きるために大切なことは、物事の仕組みというものがどうなっているかを知ることです。そのため、宇宙の真理というものを理解できないと生きていても物事の本質がよくわからずに途方にくれてしまうことになります。昔の人は食べて生きることしか考えられなかったことが多いため、そのような考えをしようと思ってもそう簡単にはできないものでした。しかし、今ではいろいろと考えることを人間が覚え始めたため、宇宙の真理について理解することも決して不可能ではなくなりました。そして、「空」と「有」の考えが理解できるようになると豊かな人生にしたうえで長生きできるようになります。
このように、宇宙の真理について理解でき、この世のものには実体がないと考える状態は「空」です。
それに対してこの世のすべてには実体があるという考えが「有」です。
この「有」というものとは、いわば「学校の仕組み」のようなものです。
私たちは小学校、中学校とずっと正解があることの勉強をしており、その答え以外はすべて間違いであると教わってきました。
その答えがある状態とはまさにこの「有」といえるのです。
つまり、人間として生きるための教育を受けるのに最も重要な時期で私たちは「空」について学ばず「有」についてのみしか学んでいないのです。このことは、答えのある世界でその答えに合うように生きるという生き方しか学べないということを如実に表しています。
しかし、学校教育が終わり社会に出て仕事をするようになると「空」の世界に足を踏み入れるようになります。
この領域にまでなってくるともはや正解はなくなります。
ここで「有」の考えしかできないと社会生活上うまくいかなくなってしまいます。
そのため「空」の理解が必要になります。
以上のことから、人間は人生の中で「空」と「有」、両方の考えに触れることができます。
その「空」が理解できるとある法則の理解にたどりつきます。
それは、「この世のものすべては私が作っている」ということです。
これは、実体があるものはこの世にひとつもないという性質上当然であり、この考えができないとまわりの環境はまわりが作っていると錯覚しがちで、人生を送るのにうまくいかなくなってしまいます。ですから、この「空」と「有」の考えを持つことは絶対に必要といえます。
この世のすべては「縁」で出来ている
この考えができると、この世はすべて「縁」でできているという考えが抵抗なく理解できます。
それは、この世のすべてのものはかかわり合いでできているという考え方です。
そして、これこそが宇宙の真理であるといえます、これがわかったときからすべての苦しみから解放されるでしょう。
自覚できる人は少ないかもしれませんが、周りの環境や人の態度、そして自分の今の悩み事は自分の態度や、私の心が原因であることがほとんどです。何かを仕掛けた結果、それが外見的行為に反映するという点で、インプットとアウトプットの関係であるといえるでしょう。たとえば自分の他人とのかかわり方しだいで相手の態度はかなり変わってきます。
こちらが変な態度を取っていれば相手もいぶかしげな態度をとることがあるため、それを打破するためにこちらから丁寧に接すれば相手も同じような態度をとるということや、あることで大きな不安を抱いていたらそれが現実になってしまったという経験をした人は多いと思いますが、これはまさにそれの表れです。この考えを理解すればまわりとのかかわりがよくなり、そしてうまく生きていくことが可能になります。
以上のことから、この世のものはすべて実体のないものであるということはお分かりでしょう。
そして、実体がなく、自分の心が作っているということは、この世のものはただ8つの「識」によって成り立っているということになります。この考えを「唯識思想」といいます。これらの8つの識のうち最も外側に現れているものを
以上の二つは自分で意識することができます。
それとは対照的に自分では決して意識することができない識もあります。
それが「第七マナ識」と「第八アーラヤ識」です。
その中の第七マナ識とは、自己執着心の象徴とも言えるような識です。
自分のことしか考えない識なのでそれが深層意識から影響を及ぼすと人間の行動は悪い方向に言ってしまいます。
欲望に関する識である以上、3つの欲望で構成されています。
この3つの欲望とはそれぞれあります。
怒りの欲望である「
人間の本能に関するの欲望である「
この有名な三つので構成されています。
そして、三つ合わせて「
そして、最後には第八アーラヤ識というほかの識に影響を及ぼすことで人間の行動を左右させる、いわば司令塔のような存在の識があります。これは善の種、悪の種、中性の種の3種類の種で構成されており、それぞれが独立して行動を支配します。この中では悪の種が他の種類の種とは比較にならないほど多いため、それらの影響下にある以上どうしても人間の行動は悪い方向に向かっていくので、それが人を悩ませることの原因になってしまいます。そうならないためには悪の種をできるだけ少なくしていくようにこの世とかかわっていくべきでしょう。これら二つをあわせて目には見えないという点から「潜在意識」といい、それに対して前の六つをあわせて「顕在意識」と呼びます。
このように、人生をより豊かにしていくために正しいかかわり合い方でこの世と接することが近道です。
仮に苦しい世界であっても見方を変えてプラス思考で生きていけばそれまで苦しいと思っていた世界を楽しい世界に変えていくことですばらしい人生を歩むことができます。苦しい世界だからといって見方を変えないとさらに苦しい生活を送る羽目になってしまうため、これは絶対に行うべきでしょう。そうなるためのヒントになるのが八正道です。人間は心で考えたことが言葉になり、それが行動につながり、その三つはしっかりしておく必要があります。
その基準となるのが「
これら八正道ををしっかりと実践すれば永遠に豊かになれます。
たとえば、人間はいずれは死にますが、その死ぬときでも苦しまないように死ぬことが可能になるでしょう。
つまり、そのための実践活動こそが八正道であるといえます。
すべての出来事はみな心が作り出したものである
「
これに関連し、まず「あなたの心があなたの幸せを作る」と言うことについて述べたいと思います。
すでにお分かりの方も多い部分もあるかと思いますが、これは、心と言うものは生きていくうえで非常に大切な要素であると言うことを意味します。つまり、心によって違いがあるということです。
「唯識」の「唯」は、「ただ」と言う意味で、「識」とは、心のことをいいます。
この「唯識」が意味するのは、この世の中のすべての出来事はみな心が作り出したものであるということです。
つまり、その人がいるからこそ、その環境があるということで、その人自身が主人公だということです。
これとは逆に、既に環境が出来ていて、自分はその中に放り込まれているだけであり、あたかも客のような存在だと言う考えの人もいます。当然ですが、「唯識」はそのような考え方はしません。
そこで、心と言うものがどういったもので出来ているかが問題となります。
まず、心は8つの層から出来ています。
私達の心は前五識、第六意識、第七マナ識、第八アーラヤ識の四つの要素から成り立っています。
これらのうち、前五識、第六意識を「顕在意識」と呼び、第七マナ識と第八アーラヤ識を「潜在意識」と呼びます。
このうち、後者の潜在意識は名前から見て心の奥底にあるものではあるものの自分の意志で動かせるものではなく、全く制御することは出来ません。逆に、顕在意識のほうは自分で動かすことが出来ます。
その中でも、外界に接しているところに5つの心があります。
それらは、
これらは、それぞれ目でものを見る、耳で音を聞く、鼻で臭いをかぐ、舌で味を見る、肌に触れて知覚すると言う働きを通じ外にあるものを自分の中に入れると言う非常に重要な働きをしております。これらは、前に出ていると言う点から総称して「前五識」と呼ばれます。
また、第六意識(「第六」を外して「意識」と呼ぶ場合もあります。私達が日常よく使う意味と同じである)
と言うものがさらに存在します。
例えば、「思考意識」とよばれるものがそれに当たります。
また、これはいわゆる虫の知らせだとか超感覚を指するところの「第六感」と言う意味で使われたり、「心」と言う意味で使われることもあります。特に、「心」に関しては私達が生きるためには欠かせないものであるため、第六意識は生きるうえでは非常に重要な位置を占めています。ただし、これらは全五識とは異なり目には見えないことを扱う為、科学的分析は進んでおらず、さほど重要視しない人も大勢います。しかし、生きるうえでは心が重要である以上、これはあまり望ましいことではないと思われます。もっとも、これですべてのことが説明できるということではありません。
なぜなら、これよりも重要な要素が他に隠れているからです。
その一つとして「第七マナ識」というものがあります。
これはいわゆる「自我意識」ととらえてもかまいません。
その名の通り、自分にとって都合のいいことしか考えません。
人間が通常生きていくためのものとして社会性だとか、道徳心などが人間には備わっており、それは主に第六意識によるものですが、その奥にはそれとは完全に正反対の心があり、それが第七マナ識といえます。これは私たち人間がこの世に生を受けた時からずっとあり、それが顕在意識に影響を及ぼしている以上、自分勝手な行動を取らせてしまうことが多々あります。実感するところがあるかも知れません。
これには、3つの特性があります。
まずは「
さまざまなものを私たちが必要だと思っている以上に求める欲望です。
物はこの世の無数にあるため、一つのものが手に入ってもまた別のものが欲しいと思います。
決して終わることがありません。
次は「
そして、「
この三つを合わせて「
これらを親分として煩悩は様々な形で心を悩ませます。
この3つによって様々な悪い現象が引き起こされることからこれらを「三毒」と呼ぶこともあります。
これは、自分を殺す3つの毒と言うことからこの様な名前がつけられたと言われます。
これによって自分の心のみならず周りの環境も悪くなってしまいますが、これらは潜在意識であるがゆえに原因として究明されることはほとんどありません。
顕在意識と潜在意識
もっと厄介なものがあります。
それは「第八アーラヤ識」です。
このアーラヤ識については「隠れている」だとか「しまっている」言う意味があります。
また、過去に起こった全ての出来事を貯めているということから「過去の唯識」と言われたり、「貯蔵識」と呼ばれることもあります。
そのため、生まれてから起こった出来事すべてだけでなく、本人の先祖の過去の出来事も全てを善の種、悪の種、中性の種の三種類の種(シューリとも呼ばれる)と言う形で倉庫のように貯めています。そして、それらの種はいずれ発芽していき、第六意識に影響を及ぼします。その結果、顕在意識にも影響を及ぼし、実際の行動につながる為、全てはこの第八アーラヤ識が握っていると言っても過言ではありません。
このように、自分の心はほとんどが見えず(見えているものは実際は1割くらいといわれています)、見えている部分は顕在意識のみで、逆に見えていない大部分は潜在意識であるといえ、私達は多くの場合自分の意志をコントロールすることは難しいのです。たとえば、私達は何も考えていない時は完全に心の中は「無」であると言う錯覚をしていると言うことがありますが、それは事実ではありません。また、いい事をしようと思って顕在意識を利用して行動を起こしても、潜在意識のおかげで、思うように行かないと言うこともあります。これは、何がおきているかと言うと私達の行動は多くの場合、潜在意識により大きな影響を受けているということです。
これらのことは、仏教徒が研究して分かったことですが、お釈迦様は人間はどういった環境にいるのか考えていました。
それで分かったことは人間は大きく分けて四つの苦しみにさらされていることです。
まずは「老」の苦しみがあります。
次に「病」の苦しみにさいなまれます。
そして、年を取って病気になるということは「死」がおとずれることになり、それが苦しみになります。
そのような事態に直面するとどうして私はこんな世の中に生まれてきたのかと考えてしまうことになり「生」の苦しみが生まれます。
これらの苦しみは「四苦」とよばれます。
しかし、人間の苦しみはこれだけではありません。
愛するものと別れなければならない苦しみである「
そして自分の欲望が制御できず生きているだけで人を苦しめることで自分に苦しみが次から次へとふりかかってくるという最も厄介な苦しみである「
前述の「四苦」とあわせて「八苦(四苦八苦)」と呼ばれます。
私達人間はこれらの苦しみに常にさいなまれていることになります。
つまり、人間の一切は苦であると言うことになります。
これだけだともう生きてるのがいやになってしまいます。
ところが、その一方で人生とは魂を豊かにすると言う側面も持ち合わせています。
そのために行動する必要があります。
そのためには人間の心がわかっていなければならないのでお釈迦様はそれを解明し、しかしそれだけではいけないので幸せになるための方法をシステム化しました。そして、そのためにはお釈迦様は仏陀の智慧を会得する必要があったのです。
お経はありがたい
一般的に仏教では般若心経というお経を唱えると仮に意味が分からなくとも気持ちが楽になります。
そして、幸せになれるといわれています。
その意味(具体的にはお釈迦様の智慧)が分かればさらに幸せになれるでしょう。
また、浄土真宗という宗派では「
このお釈迦さまの智慧はかなりありがたいことを言っています。まず、この「智慧」とは、宇宙の真理と一心同体になることを意味しています。
私たちは一般的に宇宙の真理に反することをしているため幸せになれないことが多いのですが、もし宇宙の真理と一心同体になることが出来れば幸せになることが出来ます。もっとも、「宇宙の真理」と言うものを説明しようとすると分かりにくいですが、お釈迦様はそれをたった「縁」と言う一言で表してしまいました。お釈迦様は「縁」とはこの世の全てのものはかかわり合いでできていると言う観念であることを説いており、この世はその「縁」でできていると言うことを発見しました。
お釈迦様がその「縁」を発見した時は、彼がインドのブッダガヤという場所で35歳の時に悟りを開いたときのことです。それから2500年もの歳月を経ても未だにこの教えは受け継がれています。
人生を豊かに活用する為には「縁」を有効活用し、その上で縁とは「
しかし多くの人間はそのような考えは実体的なよりどころが無いと言う意味できらう傾向にあります。
そして、「空」とは完全に正反対の考え方である「
この「有」とは、人間が考えたとおりにこの世は成り立つと言うことを意味します。
これは、一見すると「空」と同じようにも見えます。
しかし、「空」と決定的に違う点は、「空」が実体がないのに対し「有」には実体があるということです。
つまり、これらのうちのどちらの立場に立つかによってこの世の中に対する見方は全く違うものになってしまいます。
また、これについて厄介なのはこの背後に「我」と言う自分のことしか考えず、この世は自分のためだけにまわっているという考えがついているということです。そして、この「我」がもっともきらうものは「縁」です。
「我」とは、私達をもっとも不幸にする決定的な要素ですが、それは私たちの心そのものです。
心についてお釈迦様はさらに三つの要素で構成されていると言うことを発見しました。
まず一つ目は「
次は「
これらをまとめて「我欲」と言い、自分にとって都合のいいことばかり考えています。
これらはすべて産まれたときからずっと心の中に宿っています。
もっと言えば、宇宙が出来た時からずっと宿っていると言えます。
このような事実に対し、物質しかなく人間がいないときにこの様なことが起こるはずが無いと言う意見もあるでしょうが、実際は物質と言うものは精神(その原点は貪瞋癡)が作っているのでこの様なことは当然のように起こりえるのです。
人と接する時には良い心で関わる
このように、現実世界のものはすべて実体がありません。
このことを理解していれば冷静なときはそのような視点に立って判断することも不可能ではありません。
しかし、利害関係が強くなったときはその「空」がほとんど分からなくなってしまいます。
たとえばある困難が生じたとき「これは実体が無いから大丈夫だ」と開き直ることが出来ればあまり気にしなくて済みます。
その結果として同じような困難が起こりにくくなるか、あるいは仮に起こったとしてもまた冷静に対処できますが、これをずっと気にしているようだと何時まで立っても気が晴れないばかりか、また同じような困難が起こりやすく、かつうまく対処できないと言う事態になりやすくなります。最悪の場合だとそれが原因で追い詰められて精神的に不安定になって死んでしまうということにもなりかねません。実際に、人間の多くは精神的な悩みを抱えているが、その解決方法を知らないため必要以上に悩んでいると言うことになっています。
そのような事態に陥らずにどうやって幸せになれるかについて私達には、そのためのシステムが用意されています。
まずは「空」と「
この世のものにはすべて実体が無く「空」であるのに対し、ここにある物体がありその物体が何であるか物理的、視覚的に認識してしまうことが「有」です。例えば紙コップにペンを挿してしまうという形で関わり方を変えるとペン立てになりますが、現実にその対象として認識したものが常にそれであるとは限りません。これこそが「空」であり、逆にそれを紙コップとして認識したら一切例外を認めないことは「有」です。このことは私達が関わっているものたとえば人、物、金、情報などは全て「空」たるものに変わる可能性があると同時に「有」になってしまう可能性も秘めていることを意味します。
人間はインプットしたものはアウトプットするように出来ています。
悪い原因でこの世と関わった場合と良い原因でこの世とかかわった場合とでは、楽しい現実と苦しい現実というように結果はまったく変わってしまいます。そのいずれであるかを判断するにはその前提たるかかわり方を見れば分かります。たとえば、悪い心でこの世とかかわるとそれは全て悪い結果になって返ってきます。そして、自分にとって都合のいい心で相手と接してしまうと相手もそれと同じかかわり方をしてしまい、結果としてその場においてはまわりが敵ばかりということになってしまいます。
なぜなら、世の中の多くの人は自分にとって都合のいいことばかり考えるからです。
そのような相手に対して我欲で関わるとそれがこちらに対してはねかえってくるのは当然です。
だから、人と接する時には良い心でかかわっていかないといけません。実感するところがあるかもしれません。
そのような結果にするためのヒントは、般若心経の中に隠れています。
この中の「
これが意味することは、苦しい心で関わっているから苦しくなると言うことで、それを防ぐ為には善の心を育てることが重要になってくるということです。その善の心として有名なものとして
それを習慣として継続することが出来れば本当の意味で幸せになれます。
例えば一日一回般若心経を唱えるだけでも全く違うものになります。
悪い原因で関わるから苦しくなるので、豊かな心で関わればいいということになります。
そして、苦しいものの集合体(苦集)から解放された世界(滅)にするための実践活動(道)を意味するものが「苦集滅道」です。
これを深く理解することが非常に重要になってきます。
ただし、
これを知ることが出来た人は非常に幸運であり、必ず幸せになるための第一歩を踏み出すことが出来るでしょう。ぜひ実感してほしいと願っています。
この世は心のもち方で決まる
一般的に、人間は苦しいことがあると主にその原因は外的な物にあると思ってしまう傾向にあります。
実際は、自分の心がさまざまなまわりの現象を作っています。
そのため、自分の心でこの苦しいものをとりのぞくことも出来ます。
これが分からないと自分はまわりのものに苦しめられていると錯覚してしまい、実際に多くの人がこのような現象に陥っています。
このことから私達は、幸せになるためにもっとも重要なことがらである「この世は心のもち方で決まってしまう」と言う点に気をつけることが重要であるといえます。
ところが幸せになるために金や財産が必要になるといい、それらにしがみつく人がいます。実はこの様な考えは非常に危険な誤った考えであるといえます。
この考えはまわりにあるものに頼ろうとする点から考えると、人間が本来すべき考えとは相反するものです。
人々の中には、それが原因で失敗する人はかなり多いです。
そうならないためのヒントは般若心経の中にあります。
まず、般若心経の前の開経文がありますが、これはありがたい真理を会得するためにまず最初に唱える言葉です。
冒頭の「無上甚深微妙の法」とは「これほど素晴らしい般若心経と言う法はない」と言う事を意味しています。
次の「百千萬劫」の「
エベレストの頂上に天女が100年に一回降りてきて、天女の衣でなでて少しだけ頂上を削って天界へ帰っていくと言われていますが、それによってエベレストが完全に擦り切れても一劫にも満たないと言う伝承がこの単位の由来です。
まして「百千萬劫」と言う表現は非常に気の遠くなるほどの長さであると言えます。
そして、「遭い遇うこと難し」とは遭うことが非常にまれと言う意味で、そのような通常は何度も生まれ変わっても会うことは出来ないものに遭えると言うのは非常にありがたい、と言う事がこの経文が言いたいことだと言えます。
そして占いをする私達がいまお話している、この般若心経の中にいくつか重要なキーワードがあります。
「無得以無所得故」と言うフレーズの下の「依般若波羅蜜多故」が豊かに生きるためのキーワードです。
そのはじめの「依」とは「たよる」ということです。
ここから、「般若波羅蜜多にたよることによって」と言う意味が導けます。
その上で、その後の「心無けい礙無けい礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想」についてとは、「わだかまり」を意味する「けい礙」に「無」がつくのでわだかまりが無くなることを表現しています。さらに、心がざわつくことが無ければ恐怖が起こらなくなるので、それが「無有恐怖」と表現されています。そうなることで無料占いをお願いなさる皆様は「遠離一切顛倒夢想」とあるようにまちがった考えから遠くはなれて悟りの世界に到達できることになります。「般若波羅蜜多故」の「般若」とは智慧のことで、「波羅蜜多」が完成という意味なので「般若波羅蜜多」で智慧の完成の意味です。
ここにいう「般若の智慧」を表したものは「空」と呼ばれます。
一つの物はある人から見る視点と別の人から見る視点では見えるもののイメージはまったくちがうことがあります。
なぜなら、この世の全てのものは実体が無いため、そのようなことが生じることが多いからです。
これを理解することが「般若波羅蜜多」であると言えます。
ところが、多くの人はこれとは正反対の考えを持っており、それを「
この世の全てのものは存在しており、ある一つのものを特定の現象だとみなしてしまえばそれがくつがえることが無いと言う考えです。
冷静な時は「空」の考えを持つことも出来ますが、そうでない時はそれが不可能になってしまいます。
無料占いをお願いする皆様が、特に自分と利害関係が強くなればなるほどその傾向は顕著になり、「空」から「有」に変わってしまいます。
こうなってしまうと物事は実体があり動かしがたいものだと思ってしまいます。
ここから、「縁」というかかわり合いたる要素がかなり重要になってきます。
ただ、単に「縁」というだけでは分かりにくい部分もあります。
物事には原因と結果がありますが、その二つの間に「縁」があり、むしろこれが無いと原因は結果にならないということをお釈迦様は今から約2500年前に発見しました。これによって宇宙の真理を解明することが出来ます。そして、「縁」というかかわり方が結果については大事なので関わり方によって原因は同じでも結果は全く違ったものになります。このこともまた物事には実体が無く、「空」であるということを如実に示しており、これがわかることを「般若波羅蜜多」といえます。
相手に幸せを与え苦しみを抜く
人間は生まれた当初は「
そして、子供のときは多くの場合この「有」の状態が長く続きます。
なぜなら、実体があるということは答えは一つしかないということですが、子供の頃の勉強はそういうことばかりさせられるものだからです。これが世の中に出ると答えが用意されていない「空」の世界、つまり社会に入ります。しかし、それにもかかわらず「有」の世界から抜け出すことが出来ない人は大勢いて、そういった人は幸せになることは出来ません。そこで物事に実体が無い以上「依般若波羅蜜多」が重要になってきます。ここで「空」や「縁」の法則が使われます。重要なことは自分の利害が関わるとどうしても「有」になってしまうため、自分の利益を中心に考えることではなく他人の利益と関わることです。
具体的に何をやればいいかというと、例えば人に施しをするなどです。
自分の周りには「慈悲」というものがあります。
その中の「慈」とは、相手に楽を与えることで、「悲」とは相手の苦しみを取り去ることです。
相手に幸せを与え、苦しみを抜くことを合わせて「慈悲」と呼びます。
そうすることで相手は喜びます。また、その相手の喜んだ姿を見るのを、その本人もうれしい気持ちになります。
しかし、時間が経つと忘れてしまいます。ですから、無料占いをお願いなさる皆様にとって、大事なのはそれをやりつづけることで、そうすることで成功に近づけます。
人間はそれをすることが不可能なように出来ています。なぜなら、人間の心の中には「
まずは「
そして、「
これは生まれたときから備えられています。
重要なことは、これらは「空」とは完全に相反するものです。
なぜなら、「貪瞋癡」というものは自分にとって都合のいいようにこの世は動いているという考えと非常に相性がいいからです。
また、人間は悪口を言うことが大好きですが、これは「空」の道を究めることについてはもっともふさわしくない行為であり、一旦悪い世界に入ってしまったら「空」を知らないため、それを知るまでの間はノイローゼになってしまいます。
それだけでなく、人間は知的思考力があるためもっとまずいことになります。
動物にも三毒があるものの、それが使われるのはもっぱら発情の時のみです。
しかし、人間には思考力があるゆえに四六時中考えてしまうということが多いです。
それらは制御可能ではあるものの、知的思考ほど危ないものはありません。
たとえば動物は縄張りに入られてもいったん追い出せばもう追いかけませんが人間は追い出した後も明日また来るといけないからといってしつこく追いかけ続けます。つまり、知的思考と絡むことで
最後に
その代表例として、金剛界曼荼羅とは仏の世界を表しています。
そして、別の胎蔵界曼荼羅という曼荼羅は中心に大日如来がいて中心から四方八方に伸びていく宇宙観を表しています。
慈悲と智慧の両方の心をも表しています。
「空」とともに両方を分かることが必要ということを表しています。
そして、この中の不動明王も大日如来の分身といえます。
では、なぜこのような曼荼羅が出現しているのでしょうか。
その謎を解くカギとは古代インドの言葉で書かれた、大日如来に対して光明をさずけてもらえるよう祈願する光明真言です。
この言葉は日本語を基準にすると意味不明ですが、これをとなえるといかなる苦しみからも解放され、心が安定する事で最終的には幸せになれます。普段は意味が分かっていることばかり言っているからこそ
光明真言
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
真言の内容について解説すると「オン」で仏に頼むことを意味します。
「アボキャ」は釈迦如来のことです。
「ベイロシャノウ」とは仏の中の仏である大日如来に対する呼びかけです。
以下の「マカボダラマニハンドマジンバラ」の「マカボダラ」とは悟り、「マニ」とは智慧の宝珠、「ハンドマ」とは慈悲の蓮華、「ジンバラ」とはこの真言を意味する光明のことをそれぞれ表しています。そして、「ハラハリタヤ」で仏様に対し手を差し伸べてくださるようお願いし、「ウン」も同じような意味ですが、こちらは聖印であり、強いのはこちらの方です。これをとなえることにより全ての罪やあやまちを取り除くことが出来、人生の苦悩により落ち込んでしまった人々(となえた本人含む)を救済することが出来るばかりか、亡くなった人を供養することさえできます。そして、この考えかたが曼荼羅にも生きているといえるでしょう。どうぞこの意味を感じてください。
お釈迦様の智慧とは大変深い
不思議なことに思われるかもしれませんが、お釈迦様の智慧について知ることができれば嫌なことが起こりにくくなります。
このお釈迦様の智慧とは大変深いことを言っているのです。思い当たるところがある人もいるかもしれません。特にこれは般若心経の中に多く出ています。
これは一回文字だけを見ただけでは暗号文のようで分かりにくい文章ですが、非常にありがたいことが書いてあります。
まずはその前の文である
これはお経をこれから会得しようとする際にこれから読むお経は非常にありがたいものであるということを認識させる効果があります。
その中でももっとも重要なことは「われ今見聞し」の部分です。
この中の「見聞」とは見たり聞いたりすることで、ここから「私達は般若心経という素晴らしい教えから智慧を頂く」という意味が導けます。そこで、まずこの智慧をいただければよいのです。また、心の中は常に明るくしておく必要がありますが、そのためにはやはり智慧の会得は不可欠です。そして、まわりの状況があまりいいとはいえない時は「智慧」で武装しておく必要があります。こうしておけばまわりの状況がどうであるかにかかわらず心の中を明るく保つことが出来ます。そのためには智慧を見聞するということが必要であり、「われ今見聞し」とはこれから智慧を会得するということを表しています。
次に、開経文の前半の「百千万劫」について触れます。
「劫」という単位はエベレスト級の山に天女が100年に一回下りてきて、衣でその頂上をこすったあと100年後にまた同じ事をするために降りてくるという伝承がありますが、それによって山が完全に擦り切れても1劫にも満たないというほどの非常に大きな単位です。その後の「遭い遇うこと難し」とあわせて、めったな事ではこの教えを知ることはできないという意味になります。しかし、私達は、はそのような教えを知ることが現実に出来ているため、お釈迦さまの智慧を会得することが出来、非常にめぐまれているといえます。そこで、この文章をふまえて、私達は般若心経をとなえることになります。
般若心経は274文字あります。
その中でもいくつかの章に分かれます。
- 表題「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
- 第一章「観自在菩薩〜度一切苦厄」
- 第二章「舎利子〜亦復如是」
- 第三章「舎利子是〜不増不減」
- 第四章「是故空中〜無意識界」
- 第五章「無無明亦〜無苦集滅道」
- 第六章「無智亦無得以無所得故」
- 第七章「菩提薩?〜三藐三菩提」
- 第八章「故知般若波羅蜜多〜真実不虚故」
- 第九章「説般若波羅蜜多〜娑婆賀」
ただし、これをただ読んだだけでは見聞し帰依を得ることは出来ません。
まずはこの意味をよく理解しておく必要があります。
最初の第一章から見ていくことにしましょう。
この章はあたかも最初に結論が出てきてその後その結論に達するよう紐解いていく推理小説と同じ形式を取っています。無料占いをする私達はそのような方法を取りつつ、宇宙の真理と私達がかかわるための方法を展開しています。まずは第一章から解説します。
人間が悟りの世界に到達するには4つの戦略をとります。
具体的には因、行、証、入の4つのステップを踏んで悟りに到達します。
「因」とは原因、「行」とは実践、「証」とは証明された、「入」で涅槃に行くという意味で、実は簡単に悟りに到達できることになりますが、それではあまりにも簡単に悟ることが出来てしまうために、あえて暗号文にしました。
悟りの世界に到達するための心構え
まずは「因」についてです。
無料占いをお願いする皆様はご存知かもしれませんが、どの様な心構えでしなければならないかということですが、般若心経の冒頭部分に「観自在菩薩」というフレーズが来ています。
これは悟りに入るという目的のためにはもっとも重要な要素です。
まず、観音様は自由自在に相手の苦しみを救済することをねがっている菩薩です。
その観音様はある実践(行)をしました。
その実践のしかたは「行深般若波羅蜜多」に現れます。
この中の「行」とは実践することで「深」とあわせて「深く実践する」という意味になります。
そして、次の「般若波羅蜜多」は有名な暗号であり、宇宙との交信を意味します。
これで「般若波羅蜜多を深く実践した時」という意味になります。
次の「照見五蘊皆空」の「照見」は「わかった」という意味です。
その次の「五蘊」は5つの固まりであり、これも宇宙全体を意味します。
そして、その次の「皆空」とあわせてこれらはみんな「空」であるということはつまり「この世のものは全て「空」である」ということを指しており、これが非常に重要なキーワードになります。その直後の「度一切苦厄」について、最初の「度」の左に部首のさんずいをつけると「渡」という字になりますが、実はさんずいをつけなくても同じ「わたる」という意味になりえます。また、「渡」の後の「一切苦厄」は「それぞれの悩み」を意味します。それらをあわせることで「苦しみをわたる」という意味から転じて「一切の苦しみから解放する」という意味になります。
これらの事を観音様は理解しています。
しかし、観音様には理解できても自分にはそれができていないという意見もあるでしょう。
ところが実際はここでの観自在菩薩とはお経を唱える人自身のことでもあります。
お経には「観自在菩薩が」と書いてあるだけであって「私が」とは書いていないのでわかりにくいだけです。
そこから「私が般若波羅蜜多を実践して悟りに達し、この世のものが全て「空」であるということがわかり、一切の社会的な問題から解放される」という意味が導けます。
この中の「一切苦厄」はいくつかの種類に分類されます。
その中でも一番怖いのは知らないことを意味する「無知」です。
まず、何も知らなければ現実の苦しみがどのような形で成り立っているか理解することも分析することも出来ません。
その現実の苦しみは主に8つに分けられます。
まずは非常に厄介な「老」の苦しみです。
ほかにももっとあるとか、私もそれで悩んでいて無料占いをお願い使用と決断した皆様もおられるかもしれません。
ただ年を取っているだけでは「老」の苦しみというのではなく、物事が衰退したり自分のさかんなものがおとろえていくことは非常に怖く、それが直接肉体につながっていくため、この苦しみは非常に大きいものであるといえます。そして二番目の「病」の苦しみに派生していきます。これは主に老人に多く見られる苦しみで、病気は治らないで死ぬことが最も怖いため、やはりこちらの苦しみも大きいものになります。もっとも、最近は若い人でも様々な難病に苦しまれることが多くなり、必ずしも老人だけの苦しみとは限らなくなっています。そして、病気になると死ぬことがあるため、必然的に「死」の苦しみが発生することになります。このように、生きることには苦しみが多く伴うためこんな苦しみばかり経験しなければいけないこの様な世の中になぜ生まれてきたのかという「生」の苦しみが出てきます。これらの「老」、「病」、「死」、「生」の4つの苦しみは人間の基本的な苦しみであるといえます。すでに興味を持ちお分かりの方や勉強されている方もいるかもしれません。
しかしこのほかにもさらに4つ苦しみがあります。
まずは「
憎い人が遠くにいればいいですが、実際は近くにいることが多いのでイヤな気分にさせられることが多々あります。
また、「
例えば、自分の子供を亡くすということは耐えられないことでしょう。
この二つにより憎い人にはあわなければならない反面、愛する人とは離れなければならないというのは非常に大きな苦痛を伴うであろう事は想像に難くないでしょう。
次に3つ目の「
そして、最後の「
自分の中ではやっては駄目だと分かっていてもやってしまい、苦しい立場に追い込まれてしまうことがあります。
言い換えると一つの欲求が満たされてもまた別の欲求が生じ、結局心の中が満たされることが無く、無限の苦しみのループの中に追い込まれていくという苦しみを味わうことになります。
これらの8つの苦しみをまとめて「四苦八苦」と呼びます。
人間の苦しみは大きく分けるとほぼこれらのうちのどれかに分類されます。
そして、これらの苦しみの中心に私という人間がいます。
つまり、私とは常にこれらの苦しみに囲まれ、そして苦しむ運命にあるということは般若心経を理解する際の前提として覚えておくべきでしょう。私達日本人は最近では必ずしもそうではないものの、それでも多くの人は餓死するということはありません。
つまり、食べ物という観点で見れば求不得苦からは解放されています。
しかし、そこから解放されたとしても「老」や「死」の苦しみから解放されることは決して無いので、結局私達は苦しみから完全に逃れることはまず出来ません。これは、お釈迦さまの時代から変わっていません。
つまり、こうのような悩み事は、お釈迦様の昔から変わらずあったのです。
お経にめぐり会えることはすばらしい
これらの苦しみが「一切苦厄」といえます。
そして、これらから解放されるには「照見五蘊皆空」とあるように、この世のものはすべて「空」であるのだとわかればよいということになります。まわりの物は常に存在してはいても形としては決めることが出来ないから「空」と呼ぶのです。ところが、人間は利害関係が強くなればなるほど「空」から遠ざかり、一方的な見方しかできなくなってしまいます。その一方的な見方を「空」とは正反対の観念ということで「
「空」というものを知るためには「円」というものの理解が重要になってきます。
その「円」とは、この世のすべてのものはかかわり合いで出来ており、独立して存在しているものは無いということを表しています。
ところが、多くの人間はこの世のものはそれぞれが独立して存在しているではないかと反論しますが、その考えは結局「空」にはなりえず「有」になってしまいます。そして、自分だけが正しいという人間ばかりになり、まわりの生活環境が悪化してしまう原因になります。大切なのは物事を表面的に捉えるのではなく、その根本原因を明らかにするという心なのですが、それこそが「空」と直接的にかかわってきます。そして、その「空」は「円」という自分が中心に世の中が回っており、自分の考え方次第でまわりも変わるということと直接的にかかわってきます。このことは、「円」がかかわり合いでできているという考えに通じていて、この考え方が分かるためにはやはり般若心経が大事になってきます。このことをどのように考えるでしょうか。
その中に「行深般若波羅蜜多」とあります。
「般若波羅蜜多」は「六波羅蜜」を意味し、ここから「六つの実践を深くすると」という意味になります。
それでは、この6つの実践を丁寧に一つずつみていきましょう。
まずは他人に対して施しをするという意味をもつ「布施」です。
これについて大事なことは相手からの一切見返りを求めずに他人に対して積極的に奉仕するという気持ちでないといけないと言うことです。そして、そのようなことを通じて自分を高めていくことが必要となります。
次に、「自戒」があります。
お気づきかと思いますが仏に仕える立場である以上、殺生をしないだとか盗みをしないなどの仏教の戒律は必ず守らなければなりません。そしてそれを守ることによって自分の中の悪の心を全て消し、そして心をきれいにしていくという事が重要です。
3番目の「
これは忍耐をもって戒律を守るということを意味するではなく、自分に敵対心や迫害心を持つものに対してでさえもうらんだり怒りをぶつけず、むしろそのようなことをする人間に対しても積極的に慈悲の心で接することを表しています。
そして、4番目の「
5番目の「
皆さまはお分かりだと思いますが、このように、仏教のお経には般若心経に代表されるように真理や智慧を説いてくれてありがたいということはもちろん、唱えることで幸せになれるものが多いといえます。これらのお経にめぐりあえる人はあまり多くなく、これらの存在を知ったばかりか、それを日常的にとなえることができるというのは非常にラッキーであり、すばらしいことであるといえます。
釈迦の教え
釈迦は紀元前5世紀にヒマラヤ山脈の南、現在ネパール領のシャカ族の王子ですが
29才の時に財産、地位、名誉を捨て出家。
そうして6年の間、座禅、苦行、瞑想などの修行をしました。が、6年間の苦行生活によっては悟りにいたらず、他に方法(道)があるのではないかそして成就する方法は知慧(ちえ)であるとしなかなか悟りにいたらず、山から下りて菩提樹の下で21日間瞑想しているとき明けの明星が輝き、悟りました。
苦行による悟りを否定し瞑想することで悟られたのです。
苦行による禁欲主義と反対の快楽主義のどちらも否定し中道に立つことで実践される。
仏とは亡くなった人をいうのではなく、悟られる人をいいます。
仏教とは釈迦の教えに基づく教えで、僧職の務めは釈迦の悟られる内容を布教することです。
それは、私たちが幸せに暮らす為の方法なのです。
仏教に限らずキリスト教、イスラム教は天地創造の神の教えではなく、実際に釈迦、キリスト、マホメットのように実際に人間が修行して悟った内容を教えの根本にしているところが大きな魅力として受け入れられています。
無料占い釈迦の教え1と重複するところがありますが、
四諦とは苦諦、集諦、滅諦、道諦を指すのである。
- 苦諦とはこの世は くるしみの世だという事。
- 集諦とは原因があるという事。
- 滅諦とはなくすことができるという事。
- 道諦とはなくすには方法(道)があるという事です。
- 正見・・・正しく見る
- 正思・・・正しく思考する
- 正語・・・正しい言葉
- 正業・・・正しい行為
- 正命・・・正しい生活
- 正精進・・正しい努力
- 正念・・・正しい記憶、信念
- 正定・・・正しい精神統一
そのほかの4つは、四諦
ふたつめは四諦
みっつめは四諦
最後によっめは
五陰とは般若心教のなかの色(肉体)、受(感受性)、想(理解力)、行(行動)、識(精神)をさします。
以上四苦(4*9=36)+八苦(8*9=72)=108 が人間の煩悩といわれます。
煩悩→思考、行為→くるしみ
- 「惑」は煩悩
- 「業」は思考、行為
- 「苦」はそのとおり、くるしみです
因果応報
善因楽果・・・善は2世にわたり楽を与える
悪因苦果・・・悪は2世にわたりくるしみを与える
<b>「鏡の原理」
自分から相手に対する行為や気持ちがまるで鏡に映すがごとく、 自分に返ってくることを「鏡の原理」といいます。
慈悲・・・慈は幸せを与えようとする心、悲は人のくるしみを理解し苦しみを取り除こうとする心です。
キリスト教における愛にも似ています。 ただ仏教における慈悲は相手を理解する洞察により生まれるもので、キリスト教における愛は神のすべてを信じることにより神に近づこうと神の愛の
住所 :〒980–0845 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33-2
電話番号:022–225–8640
FAX :022–225–8655