苦集滅道
苦集滅道
苦集滅道
私たちは、仏教が生活のなかで活用できることを説いています。
活用とは誰もが使っても有効に出来ることです。
そのため、仏教をうまく活用した方は幸せな人生を送る反面、うまく活用できないと幸せな人生を送れないということではいけません。
たとえば、ある車を運転するとき、ある一人の人しかきちんと運転できないのでは困るように、ある特殊な才能がないと使えないということではいけません。
仏教も普段当たり前のことをやっているのと同じように活用できたらよいのではないかと思います。
仏教の本質とは「苦しみからの解放」です。
さほど難しいことをやろうとしているのではありません。
また、専門的な知識も不用です。
そして、仏教はその苦しみを生活のなかで活用できることを解明しました。
そのため、仏教とは本来誰でも活用でき、誰でも幸せにすることができるものです。
「苦」はひとつであっても、その解決手段は沢山あります。
そのため、苦しみから解放されるのであればどんな方法を使ってもかまいません。
一人一人その手段を持ってるのはそれはそれでかまいませんし、過激な方法を使う場合もあるかと思います。
しかし、仏教は一般的な方法で解決する方法をわかりやすく提唱しました。
そのため、仏教では、奇跡だとか神通力や、オカルトなどということはあまり説きません。
もちろんそう言った物を仏教的なもののあとにやるのはかまいませんが、それらの原点となるものは実は仏教の中にあります。
これについてはご存知の方もそうでない方もいらっしゃると思いますが、
その中で、特に「苦」というものについて説明していきたいと思います。
ひとことでいうと、この世界は苦である、という真理をあらわしているのです。
苦しみというものは無数にあります。
これは皆様も十分ご承知であると思います。
しかし、お釈迦様はそれを解明してしまいました。
まず、苦しみは、人を取り巻いており、年をとると年をとるという苦しみにさいなまれます。
そして次に病気になるという苦しみがあります。
最後には死ぬという苦しみが待っています。
それだけでなく、万人共通、人間としてこの世に生まれてきたことそのものも苦しみであるといえます。
なぜなら、この世に生まれてきた以上自分の意志で別の世界に移ることは出来ないからです。
今は80歳くらいまで長生きできます。
その分より老化による苦しみは増すことになります。
病気の苦しみですが、今では多くの病気は治るようにはなったものの、癌など治りにくい病気になる、という苦しみは依然残っています。
また、長生きすることで、従来ならかからないような病気になるひともいるかもしれません。
そして、ご存知の通り、死はいつかは訪れるものです。
これは避けられませんので、やはりそういう苦しみはあります。
また、死が突然来たときどうやって対応するべきかは難しいといえます。
しかし、死を楽に迎えようと思っても気がついたら年をとり、病気になって、生まれてきた苦しみというものを実感するようになります。そして、自分はつまらない世の中に生まれてきてしまったと思っても、元にはもう戻れません。
ところが元に戻れないから前だけ見ていると、後はもう老化と死しか待っていないということになってしまいます。
これを何とかしたいと思っても、これに対する対策はありません。
従って、人はみんな、年をとらずにすむ方法はありません。
完全に病気にならないということもありません。
ましてや万人が皆同じく死から逃れられる方法はありません。
このように、人間である以上、誰でも「
このほかにも厄介なものがさらに4つあります。
前述の4つは肉体的なものでした。
しかしそれに対し、後述の4つは精神的苦しみです。
こちらの苦しみを感じていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。
まずは憎い人に会わなければいけない苦しみ「
あとは愛する人と別れる苦しみ「
また、欲しいと思っているものを得ることが出来ないという苦しみ「
そして、人間の存在自身の苦しみ「
これらをすべてまとめて「八苦」といいます。
「四苦八苦」という慣用句はここから来ています。
苦しみはすべてこの8つの中のどれかに区分されます。
「苦」とはなにか
これらの苦しみの中心に「私」というものが存在します。
それにもかかわらず、人はその中に自分を配置せず、他人を配置し、まるで他人事のように振る舞い、しまいには他人が苦しんでいるところを見て喜んでいる有様です。
苦しみが他人のところだけにあるうちはまだいいのですが、それが自分のところに来てしまうと、非常に困ることになります。
これについては皆様同じく感じていると思います。
たとえば「怨憎会苦」についてですが、憎い人がいない世界はありえません。
ある憎い人がいなくなっても必ず別の憎い人は出てくることになります。
また、「愛別離苦」についてもやはり、愛する人がいてもやはりこれもいずれ必ずいなくなってしまいます。
つまり、ある問題を今日解決しても別の問題が明日出てくることが多いのです。
それが直接自分にふりかかってきてしまうことになると大変苦しむことになります。
そこで、人間は現実逃避に走ることがありますが、これでは根本的な解決にはなりません。
そこで、これらの問題をどう解決するかということが問題になります。
そのためにまずは「苦」というものをしっかり見ておく必要があります。
「苦」はまず、我々の周りを渦巻いているため、「苦」はむしろあって当たり前であり、むしろ真理であるといえます。
だから、それをそれとして受け入れればあまり苦しまずにすむのですが、それを逆にごまかそうとするから余計苦しむということが多々あります。そのため、「苦」が常にあることを正確に認識できた人が苦しみのダメージを最小限にすることが出来ます。
苦しみというものを受け入れろといっても、素直に受け入れたい人はいません。
なぜなら、人間は好きでもないものを受け入れることは普通は嫌がるからです。
解決できないものを受け入れたいという人は普通はいません。
まして、仏陀の智恵を知らない人は受け入れられないでしょう。
また、これらを素直に受け入れるのには心にゆとりがないといけません。
しかし、それでもやはり多くの人は、これから逃げようとします。
これを避けようとするともっと事態は悪化してしまいかねません。
たとえば、心にゆとりがないからこそ人と接する際分かれてしまうことを恐れるあまり必要以上に神経質になってしまいます。
そして、結果的に関係がギクシャクするということも考えられます。
また、心にゆとりがないからこそ、「苦」に対する対応に問題が出てきます。
逆に、「何が出てくるか心配だ」という考えを捨て、「何が出てきても心配ない」という考えになり、どんな苦しみであっても解決できる方法を持つ人こそが心にゆとりを持つことが出来、最終的に得をすることになります。
ただ、ここでどんな苦しみも解決できる方法をどうやって持つかが問題になります。
それは、宇宙真理を会得すればよいのです。
「宇宙真理」とは何か疑問に思った方も多いかと思います。
ではこの宇宙の真理とは何か、ですが、これは膨大な哲学書に書いてあって、それを理解するのに一生かかってしまうのでは意味がありません。
私達と深く関わっているお釈迦様は、それを「縁」であると一言で片付けてくれました。
これこそ、人間を幸せにする原点であるといえます。
「縁」とは、この世のものすべてのことを指し、この世のすべてのものはそれぞれが互いにかかわりあうことで存続してるという法則から成り立ちます。
いいかえると、ある人の周りにあるものは、その人とかかわることで存在しているのであり、それはつまりその人との係わり合いがなければそのものは存在し得ないということを意味します。
皆様にも同じことが言えます。
ということは、この世界は自分を中心にまわっているということになります。
常識ではこの考えはありえないと考える人も多いでしょうが、このことに気がついた人は、解決手段を見つけるための糸口をつかむことが出来ます。
そして、苦しみも自分の周りにいて直接かかわっている以上、苦しみは自分で振り払えるのです。
そのため、「苦」は他人が運んでくるという思いがあります。
そして、周りが変わってくれなければ自分の「苦」が取り除かれることはありません。
しかし勘違いしないで頂きたいのです。
そういった考えは実は大間違いなのです。
彼らは本当の意味での「苦の運び人」ではありません。
真の苦の原因の運び人のような存在が別にいて、それが周りの人を手下にして運ばせているのに過ぎません。
その黒幕とは、実は人間一人一人の「私」自身の心なのです。
つまり、私の周りの環境はすべて私自身の心のあり方によってきまってしまうということです。
これは、この世は「縁」で出来ていて、自分はその中心にいることからすれば当然であり、心を変えることが出来れば環境を変えることが出来るということを意味します。
「集」とはなにか
四苦八苦の苦しみは、すべて私達の心が作っているものです。
これらの苦しみから解放されるには、私達の心というものが非常に重要になってきます。
極端ないいかたをすれば、これを理解すれば私達の周りには苦しみというものは出現しないということになります。
この「心がすべてを作っている」状態を仏教用語で「
これは「ただ意識のみ」という状態で、自分の周りの環境はすべて自分自身が作っているということです。
たしかに最初から存在しているからそうではないだろうという考え方もあるでしょう。
しかし、これらをどう見ているかは人によってまったく違います。
ある一つのものを見るときであっても、別のものに見えると言うことが良くあります。
たとえば、縄が蛇に見える人がいたとします。
この縄が蛇に見える人を「迷いの心」といい、縄を見て輪に見える人を「悟りの心」といいます。
実は私達が普段していることは「迷いの心」そのものです。
なぜなら、世の中にある全てのものは仮に関わりあって出来ているからです。
まず、この世は全て縁で出来ており、その係わり合いの通りに見ることが出来る人(悟りの心)はいいですが、多くの人はそうではなく、「縄を見て蛇だと思う」と言うようなことをしています。
それゆえ、物事の本質を見ていない状態であり、様々な問題が生じてしまいます。逆に、悟りの心をもっている人にはそのようなことはおこりません。
そうであれば、きちんと物事の本質を見ることができればそれでよいということになるのでしょう。
しかし、人の心は、勘違いするように出来ています。
いわば人の心は欠陥商品といえるでしょう。
このことを指して「唯識」といいますがこれは、お釈迦様が入滅してから1000年ほどたってからの仏教徒が解明しました。
まず、人間の心は8つの心から出来ています。
一番外側のことを外界(境)といい、その外のものを取り入れる際、5つの心を使っています。
これには眼の心、次に耳の心、鼻の心、舌の心、物を触って確認する身の心(以上各眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)があり、それらの心は外側にあります。
これらのことを「前後識」と言います。
ひとつでもなくなると生活が非常に不便になります。
これら以外に、「第六意識」と言うものがあります。
前の5つは外から入ってきた情報を理解する心、いわば感覚意識ですが、これは外から入ってきたことについて考えるいわば思考意識と言えます。
これら外側で認識できるものを総称して表層真理と言います。
その下にはまだ二つあり、それは、「第七
これらは、表層真理の下にあるという意味から「深層心理」といわれます。
これらは、隠れている為、私達が知りえるものではありません。
そのため、第六心理までで私達は生きていると思いがちですが、それだけでしか考えていないとどうしても分からない事が出てきます。
実際は、それらを仕掛けている意識があり、それは第七
これは、自分が楽になることしか考えず、人が不幸になると喜ぶと言うもので、自我意識とも呼びます。
これは、4つの執着心(事物に固執し、囚われる事)で出来ています。
- 我癡で、自分が何なのか分からない心で、愚痴を言う心です。
- 我見で、まちがった幻想にとらわれてそれに固執してしまうことです。
- 我慢で、自慢すること(日常用語とは意味が違う)です。
- 我愛で、自分だけを可愛がろうとするものです。
私達は表層心理で考えているように見えますが、実際は無意識のうちに仕掛けられています。
あたかも自分の意志で動いているように見えますが、そうではなく、煩悩の方が強いのです。
また、これを仕掛けているものもさらにあり、それが「第八
これは、生まれてから言ってきたことや、心で思ったことを全て種として蓄えているものです。
今述べていることもたまっています。
しかも、自分だけで無くご先祖様(人間になる前も含む)のものも全て蓄えています。
外からのものを受動的にとらえるのは前後識からですが、能動的に仕掛ける時は第八
第八
「阿頼耶識 」とはなにか
人間は自分の意志に反した行動をとることが多いですが、それは自然なことだと言えます。
しかし、それによって自分のことだけ考えてこの世と関わる為、周りの人は嫌がることもあるでしょう。
それによって、自分にとって苦しい環境が出来、それ自体も第八
これは個人差があるため、人によって第八
しかも、これはただ入っているだけではなく、種のようなものである為、中にいたものが外に出てくることもあります。
そして、それが自分のことしか考えない第七
また、ここには四煩悩が宿っています。
この、外に出てくる「種」は3種類あります。
善の種、悪の種、中性の種があります。
まず、善人であろうと悪人であろうと自然にとる行動については中性の種が宿ります。
もちろん良い行動については善の種ですが、悪い行動をとらせようとする悪の種もあります。
その比率としては、九割九分が悪の種であると言われています。
善にせよ悪にせよ、いったん入った種は取る事が出来ません。しかし、良い種をたくさん入れることによって第八
そして、第八
しかし、私達は単純に「どうやって幸せになるか」だとか、「苦手な人とどう付き合うか」など、小手先の手段に走りがちですが、それでは不十分です。
私達が第八
それでは、第八
まずは、自らの善意で他人に施しをするということです。
これをすることで、四煩悩の一つの「我愛」が消えていきます。
次は、いわゆる「持戒」であり、悪いことをしないと言うことです。
これには、人の悪口を言わないとか、暴力を振るわないとか、邪な男女の関係を持たないなどが含まれています。
これをすることで四煩悩の我見が消えていきます。
その次は、屈辱を受けても耐え忍ぶこと(
これをすることで四煩悩の「我慢」が消えるため、傲慢な気持ちがなくなります。
最後に、精進で、これは正しい努力をするということです。
これらを極めることで、我々の意識化にある第七
これらを日常的に実践したうえで、禅定つまり、瞑想を行います。
般若心経を1日1度唱えるのもよいでしょう。
これを続けていれば智恵を会得でき、そうすれば第八
般若心経の「行」とは、実践することで、般若波羅蜜多とは、般若は智恵のことで、波羅蜜多は六波羅蜜の第六番目のことを言っています。
そして、「行深般若波羅蜜多」とは、六波羅蜜を実践した時であると言えます。
そして、次の「照見五蘊皆空」は、五つの塊は全て「空」であるということがわかるということで、全ての苦しみから解放されるというわけで、つまり、「六波羅蜜を実践すれば全ての苦しみから解放される」という意味になります。
これは、第八
「滅」とはなにか
「滅の智恵」について述べます。
仏教とは、決して堅苦しいものではありません。
仏教とは、今を生きるための道具なのです。
人間は生まれた以上、幸せになる権利がありますが、そのための手段としては仏教は大変よいものです。
仏教のことを大乗仏教だとか、小乗仏教などと言います。
「乗」とは、乗り物のことを表しています。
乗り物とは目的地に行くまでの手段であるため、お釈迦様は仏教を手段であると定義づけ、それを道具として使って人々に幸せになって欲しいと思っていました。
つまり、仏教とは最初から人々を救う為の手段であったため、私達がそれを道具として使うのはむしろ自然なことであると言えます(もちろん、仏教は必ずしも強制力はありませんから、信じる信じないは自由であるため要らなくなったら捨ててもかまいません)。
ただ、これから世の中は乱れてきますので、仏教に限らず何らかの信仰は持っておいておいた方がよいでしょう。
人はいいことがあると有頂天になります。
反面、困った時は萎えてしまい、何かにすがりたいと言う傾向にあります。
また、人間は誰でも心の中に仏教において最も克服すべきとされる根本的な3つの煩悩(三毒)を持っています。
この煩悩は、人に対して非常に悪い影響を及ぼし、そのために苦しみもしくは悪の根源であると言われています。
まずは、貪りの煩悩があります。
欲しいものがあったら必ず欲しいと思ったり、人がいいものを持っていたらそれも欲しいという満足を知らない欲望があり、これを「
次に、怒り(特に自分に逆らう者に対して)の心を意味する「
私達の心の中は貪瞋癡そのもので満たされてるため、仮にそれをやめようと心の中では思っていても、また忘れた頃に復活してきてしまいます。
つまり、決して貪瞋癡はなくなることはありません。
それだけでなく、人間は恐ろしいものにさいなまれていて、これは逃れられないものです。
それは、年を取る苦しみ、重い病気になる苦しみ、死ぬという苦しみ、そして生きていることそのものに対する苦しみです。
これらはとても厄介なものですがいずれ必ず訪れるものであるということは知っておくべきでしょう。
根本的な苦しみをまとめて、「四苦」といいます。
- 憎い人と会う苦しみ(怨憎会苦)
- 愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)
- 欲しいと思っているものを得ることが出来ないという苦しみ(求不得苦)
- 自分と言う人間の本能が盛んで制御できないということの苦しみ(五蘊盛苦)
こちらも、逃れることは出来ません。
例えば、怨憎会苦については、憎い人がいなくなったとしても、また別の憎い人は必ず現れたりします。
また、昔は憎くなくなったが今は憎いということもありえます。
愛別離苦については、だれでも親や子供といずれ別れなければなりません。
そのため、やはり逃れることは出来ません。
そして、求不得苦についてはあるものが得られてもまた別のものが欲しくなったりします。
また、一部は得られても全部を得る事が出来ずにやきもきすることは多いと思います。
また、前述の四苦と、これら4つの私達を取り巻く苦しみをあわせて「四苦八苦」といいます。
これらの真の原因はすべて心で、その中心は
つまり、貪瞋癡が原因であり、四苦八苦が結果であると言うことです。
そのため、全くと言っていいほど苦労が無く、幸せであると言う人はいないといってよいでしょう。
このことはお釈迦様が発見されたことだと言われています。
このことは、人間は一切が苦であるということを意味します。
たとえば、人間は若くなることは無く、必ず年を取ります。
これほど厄介な世の中だと思ったときにはもう生まれていますが、まずは生きている限りそういったことからは逃げることができないと言うことを私達は理解するべきです。
そして、それを理解できた人から幸せになれる権利を得ることができ、そこから私達は新たな段階に出発できます。
一切の苦しみから逃げることはできないと言うことを主張していたお釈迦様のことを「悲観論者である」と言う人もいるかもしれませんが、それは必ずしも正しくはありません。
なぜなら、それを理解することが幸せになるための切り札になるからです。人々を幸せにしたいと考えていたお釈迦様が苦についてそのような主張をしたのは人々を幸せにするためであるからです。
それでも、「自分はこんなに苦しい思いをしているから、普通ではないのだろうか」と思う人もいるかもしれません。
これらの苦しみは程度の差はあっても、誰にでもあるものなので、むしろ正常であると言うことが出来るでしょう。
逆に言えば、それが無い人はどこかがおかしいと言うことになります。そして、それを知ることもまた幸せになるための第一歩であるといえるでしょう。
苦しみから解放されるためには
苦しみを具体的にどうやって解決していけばよいか悩む人も多いでしょう。
まず、最も大切なことは、現実の苦しみは自分の心が生んでいるという事です。
決して他人が生んでいると言うことではないということです。
これを理解することで苦しみから解放されるための道筋が出来ます。
そうすることで、苦しみを滅した世界である「滅の世界」が開かれます。(苦しみを滅することを「滅」といいます)
ただし、この世界とは例えば「しあわせの国」があって、その中に人が入っていって幸せになれるということではなく、悟りとは四苦八苦から開放された世界のことであるとお釈迦様は代表的な経典の中で述べています。
幸せとはある目標があってそれがかなうことによって成り立つと言うことではありません。
もちろん、四苦八苦から解放された世界とはこの世界の事を指しています。
また、お釈迦様は、私の心と苦しみの架け橋として「縁」という、この世の全ては係わり合いで存在していると言う法則を発見しました。
これがわかれば、この世界は自分の心が作っていると言うことと、この世は総じて流動的であり、決して固定的なものでないということがわかります。
だからこそ、苦しみは人によっては全く違ったものになります。
例えば、病気にしても様々な命に関わる病気がありますし、老いに関する苦しみにしても、認知症になることに対する苦しみを感じる人もいれば、寝たきりになることに対する危機感を持っている人もいて、それぞれの苦しみは千差万別です。
このように固定的でないとしても、その原因の根本となるものは同じなので、人によって解決手段は大きく異なるわけではありません。
これらの苦しみは自分に関する苦しみです。
多少他人の助けを借りることはあっても、最終的にそれを解決できるのは自分自身に他ならないのです。
他の教えでは他人が助けるとするものもあるかもしれませんが、仏教ではこの様な観点に立つことはありません。
なぜなら、この世の中は私と世界しかないからです。
人間は見えているものに引っ張られているのに代表されるように、対象物によって錯覚を起こす性格があります。
ところが、周りのものが全て空であり、それを踏まえて考えればそれらは全て幻想であることが分かります。
実際はその人の心が変化しているからこそ周りも変わってしまい、同じように相手も変わっているということになります。
自分だけでなく、他人も「空」の存在であり、
それを多くの人はそれが自分が相手に影響されていると思っているだけです。
その点を理解していないと、思わぬ勘違いをしてしまうことになります。
このように、周りとの関係は固定的でないということは、「縁」とは「空」であると言うことを意味します。
これは人生を生きるための素晴らしい知恵を教えてくれるものです。
これが分かれば「空」であると言える現実の苦しみの全てから解放されます。
ただ、ある程度蓄積されて出来た苦しみを完全に取り除くのは時間がかかってしまうことには注意が必要です。
それでも、所詮は全て見せかけの存在なので「空」の心をもってこだわりを捨てれば(「空」とは、「こだわらない」と言う意味も含みます)比較的短時間で苦しみから解放された世界である「滅の世界」に行き着くことは可能です。
何か困ったことがあったら、「この世は全て見せ掛けだ」と割り切るのも一つの手段でしょう。
また、
しかし、他人も貪瞋癡を持っています。
それを考えると、そういう他人に立ち向かう為には、こちらは貪瞋癡ではない方向を目指せばよいのであり、それが悟りへ向かう為の機会なのです。そのためには、4つの実践をおこなうとよいです。
- 周りの人に施しをすることです。
- 人が見ていないからと言って悪いことをしないと言うことです。これには、嘘をつかないことや、盗みをしないことなどがあります。
- 屈辱を受けても耐え忍ぶこと(
忍辱 )で、最後に、精進で、これは正しい努力をするということです。もちろん、悪い面は出しません。 - 禅定という、心が乱れてきた時に冷静になり、心の整理整頓をすることです。
これらを実践して、始めて「空」がわかり、その結果自分を幸せにする為の糸口をつかむことができると言うことになります。
「道」とはなにか
人間は、もともと心が弱いものです。
その心を穏やかにしていれば病気にもなりにくいのです。
しかし、その心を不安定にするものの代表として、お金があげられます。
今世の中が非常に乱れています。
これは拝金主義の社会になっているからに他なりません。
もう一つは、一番身近な人間関係である親族関係です。
赤の他人ではこうはなりませんが、親族だと切っても切れない関係である為、悩みも大きくなります。
さらに、病気もその一つにあげられます。
治りにくい病気にかかってしまっては、精神的に不安定になっても仕方がないでしょう。
また近年では、仕事に関することもその一つに加えられます。
このように、いろいろな物事で人間の心は悩みにさいなまれています。
そのため、平穏を保つのが難しくなっていますし、長生きもむずかしくなります。
それでも、多くの人は心を安心させた状態で生きていきたいと願うはずなので、そういった不安を取り除く方法を求めている人も多いでしょう。
当然のことながら、心を安心させるための方法は何通りも持っておいたほうがよいのではないかと思われます。
そのためには、「信じる」という、いわゆる信仰心が大事になってくるのです。
なぜなら、物を信じることにより、救われるからです。
また、物に関することではなくても神社やお寺など神聖な場所に行くことです。
そしてそこで、智恵(例えばお寺ならお釈迦様の知恵)を聞くというのも一つの手段です。
おそらく、これが最も基本的な手段といえるでしょう。
例えば、般若心経を唱えたり、不動明王に祈りをささげると心が和みますが、これは大変すばらしいことであると言えます。
実際、般若心経をずっと唱え続ければその人は幸せになれます。
テーマは「道の智慧」と「八正道」についてです。
まずは、「道の智慧」についてですが皆さんが心のどこかで悩んでいることは智慧さえ分かれば、必ず悩みはどこかに飛んでいってしまいます。
普通、悩み事はさほどたいしたことが無いことが多いのですが、智慧についてよく知らない人にとってはあたかも重大な問題であるかのように思えてしまいます。そのように物事を固定的に考え、そのうえでそれをなんとしても自分ひとりで解決することに固執してしまいます。単純に考えれば、気楽に生きようと思うならば、これをやめればよいというだけです。
つまり、これと逆のことをやればいいということになり、このことを「空」といいます。
このことは、物事には全て実体が無い為、固定的に考えない(あるいは、こだわらない)と言うことを意味します。
こうやって物事を考えられれば、どんな困難が待ち受けていようとも心配なく乗り越えていくことが出来ます。
そもそも、こだわったところで解決に至ることは無いので、こだわる必要性は最初から無いのです。
仮に変なところにこだわってしまうと、精神的に病んでしまった挙句、病気になってしまうということになりかねません。
智慧を会得することとは、「空」が分かると言うことに他なりません。
つまり、この世の全てのものには実体がないと言うことが分かればよいといことになります。
その一方で、私達の心の中は貪りたいだとか怠けたいなど、自分の幸せしか考えられない我欲が渦巻いています。
そのため、「空」を絶対に認めないという気持ちが個人差はあるにせよ、多くの人は心の中にあります。
それが最終的には人間を、固定的な見方でしか見ることが出来なくなってしまいます。
つまり、固定的な見方と言うのは、我欲の表れであるといえます。
その智慧である「空」を体系化したものが般若心経です。
その中で、中心になるのは、その中の一説である「無苦集滅道」の中の「道」です。
このたった一文字であっても、それだけで多くの戦略を作ることが出来ます。
まず、「道」とは、実践すると言うことで、正しい実践活動という意味に取られることもあります。
ちなみに、この「無苦集滅道」のフレーズは般若心経全体の意味を包含している非常に重要なフレーズであると言えます。
八正道を正しく実践する
八正道とは、この世が「空」であると言うことが分かった人が幸せになるための実践の展開であると言えます。
全てが「空」であることが分かったひとが正しい実践をすれば、その人は必ず幸せになれるのです。
その正しい実践こそが八正道であるということになります。
それには、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定という8つの正しい実践の仕方があります。
また、自分を客観的に分析することも出来ます。
まずは
全て素直に受け入れ、自分を取り巻く現実の環境を直視し、楽しいことも苦しいことも正面から捕らえ、その上で心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものとしりぞけると言うことです。このように現実を厭うことが正見であるとすれば、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われますが、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成であるといえます。当然のことながら嘘をつくことは、絶対にやってはいけないことです。
次に、
これは日常のものを否定することを言います。
特に、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」からなる日常生活を否定するもので、それらの欲望をありのままで考え、そしてそれらを捨てることを思惟することです。自己とは本来空たるものであり、その対極たる自己の欲望を捨てることで、空の状態に近づこうとするものです。
次の
妄語、綺語、両舌、悪口からはなれて正しい言葉を使おうとするものです。
これは、般若心経以外のお経にも出てきます。
これにより、人格の破壊を防ぐことが出来ます。
これに対しするのが
生きているものを殺したり、物を盗んだり、邪な性的関係を持たないと言うことです。
それにより、自分と言う人間の人格を尊重し高めていくことです。
その次は、
これに関しては「邪命を捨てて、正命によって命を営む」と言われるように、如法な生活を送ることこそが正命であると言われるように、間違った生活を完全に捨てた上で正しい生活をするということを目指すもので、その上で今やることは何であるか客観的に判断し、そしてそのことをしっかりとやることです。人間は、生きるために正しくない手段を取りがちですが、どんな状況下であっても自らの人格を下げてはいけないということの現れです。
これに関連し、僧侶には五種邪命が説かれます。
それは、仏の教えに背き、奇異の相を現じて己を敬わし、利養を貪ること。
種々の巧みな言葉や弁舌を以て自らを誇張し、人々に敬いの心を起こさしめて利養を貪ること。
人相や日時・方角によっていたずらに人心を惑わし、吉凶を占い利養を貪ること。
大言壮語し大衆を偽り、威儀を示し、畏敬せしめて利養を貪ること。
巧みに種々の利益を説き、人心を煽動して利養を貪ること等です。
そして、そのような生活はひたすら努力をすることによってのみ実現することができ、それが
そして、これが四正勤として既に生じてしまった悪を断つとか、まだ生じていない悪は起こさないようにすると同時にまだ生じていない善は起こすようにし、既に生じた善はこれをさらに良くしていくという形で説かれています。
次は
これは、人は良いことや正しい事は忘れ、忘れた方がいい事は何時までたっても覚えているものですが、ここから自分のおかれている立場や、それを取り巻く環境について正しく知り、言うべきことであるか否か、聞くべきことであるか否か、意識するべきことであるか否かを念頭に置き、自らの意識を反省した上でどう行動するべきか自覚し、自らの心を律して責任ある行動をとるべきであると言うことなのです。
最後の正定は、精神を統一し正しい智恵を完成させることです。
人間にとって正しい智恵を完成させるためには妨げになる誘惑が多く、そのためには、それに惑わされないようにする必要があります。これが完成して始めて正見が完成します。八正道はそれぞれが有機的に結びついており、どれか一つでも欠けていると完成することはありません。
八正道とは、以上のような8つのことの実践であるといえます。
これらを完成させることで、人間が完成することになります。この中で最も重要なものは正見であり、それを実践させる為の具体的方法が正思惟であるといえます。
「波羅蜜」とはなにか
縁あってインドに行って参りました。
般若心経をこうして、述べられることは大変光栄です。
こうして般若心経についてお話させていただけるというのは本当にありがたいことです。
般若心経から経営哲学の真髄まで題目が硬いものが多いです。
これは要するに経営も人生の中の一部です。つまり経営というのは仕事のやり方です。それを人生に変えれば人生のやり繰り、生き方ということになります。これは、毎日、されていることだと思います。
ですから経営哲学を人生哲学の真髄と変えれば何も経営と変えるだけで、ここを人生と変えれば、人生哲学、となります。
人生哲学とは何かといいますと、人間生きていくために、せっかく生きていくのでしたら幸せに生きたいと言うことだと思います。
ところがこの世の中というのはどうも幸せに生きよう生きようと思うほど、不幸の方がついてまわります。
ひとつの不幸が解決するとまた次の不幸がやってくると、とめどもなくそういうことの連続です。そういうことを考えるとやはりそういう中で正しい生き方というのは、いつの時代も大切でして、そしてやはり生きている限りにおいては幸せになるということを追求していくことが大切です。
これは何も現世の為では無いのです。
私はインドに行きました。
そうすると、インド人のガイドがつくのですが、インドのガイドというのはエリートです。
エリートというのは、本当に大変なものです。
デリー大学出というと日本でいう東大出のような人で、そこの日本語学科で、日本語が話せなければ日本のガイドになれないわけです。
インドという国は、本当に大きい国で貧富の差が大きい国です。
そして、その貧富の差から、勉強する人としない人が多く出てきてしまう国です。
その中で日本語を学んでる方というのは、少なくとも日本から来るお客様を対応するというのはそれだけ大変に有意義な仕事ができると言うことなのです。そういう、付加価値のお仕事ができるということで大変人気のある職種です。
その中で10年来私がずっとお付き合いしているガイドがいます。
この方はヒンズー教徒で、いついっても大変心が分かる方なんです。
そういう方と接してて、今回も12、3日の間にヒンズー教の方というのは来世を信じていることを痛感したのです。
日本人もだいぶ来世を信じる方が多くなって来られました。皆様にも信じる方そうでない方がいるかと思います。
まだ日本人というのは、どちらかというと、死んだら極楽へ行けるなんていうことを思っています。
極楽とんぼといいますか、大変幸せな考えを持っている人が多いと思います。
死んだら極楽へ行けるという考えを持ってますから、現世はどんなことをしたって、悪いことをしたって関係ないんだと、死んだら極楽へ行けるんだと、いうことなんだと思います。悪いことをすれば地獄へ落ちます。しかし、皆様や私達に限らず、お前は地獄へ行くぞなんて言われるよりは、たとえ嘘でも極楽へ行けると言われたほうがいいわけです。
「輪廻」とは何か
インド人というのは私たち日本人とは違い4000年来輪廻を信じてきています。
輪廻とは何かといいましたら、次も必ず生まれ変わるという考え方なのです。
そして前世において、いま生まれているところにおいて、良いことをして善行をした人は良いランクになれる。
悪いことをした人は悪いランクになる。
それが六道というものでつながっているのです
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天。
地獄絵を見て人間が頭で考えたと思ったら大きな間違えです。あの世に行けば必ずあるのです。そんなものは無いよということで、もしも行ってエンマ様が出てきたらどうするのですか。もうこれは大変なことです。たとえば、死んだ後「私はいま、般若心経唱えなかったな。みんなが般若心経を唱えてる時に、こんなものはでたらめだと思ったな。」とそういったことを、エンマ様がそっくりそのまま分かっているのですから、これは大変です。だれも嘘はつけないのです。
インド人というのは輪廻を信じています。
すなわち、輪廻を信じなければならない社会環境になっているのです。
皆様の中には輪廻についてお考えの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
何故輪廻を信じなければならない社会環境になっているかといいますと、上は、バラモン、クシャトリヤ、バイシャ、スードラという、こういう4階級があるのです。
しかしさらに、その下にハリジャンといってカーストにも入れないアウトカースト達が2億人いるのです。
一番上のバラモンが一番偉い、次にクシャトリヤというのが武士とか政治を司どる人。バイシャというのは庶民です。スードラというのは上位3階級に仕えるようするに奴隷となっているのです。ここまでは奴隷といえども4階級までは社会的なんですね。村で言えば村の中にいる「人」なんです。
ところが、先ほどもお話した通り、その下にアウトカーストといいそれ以外の下の人がいるんです。
それはもう人間ではない。私達や皆様日本人がこんなことを言うと、なんという差別かと思いますけど、インドという国はこれを4000年やってますから差別という言葉は無いのです。カーストというのは差別という言葉です。
インドでのカースト制というのはそういうことなのです。
16世紀にポルトガル人が、このインドという国は、ほかの国とは違うと感じたようです。
何か階級制があるようだが分からないと思ったのでしょう。
それは名前がないようだからカーストという名前をつけたのです。
これは外国人が付けたのです。インド人はその中にいますから、自分達はそんな差別をしているとは思わないのです。これが要するに輪廻というものです。
この社会にはいられないような路上をさまよっているのは、あれは前世に悪いことをした結果なのだというわけです。
子供にたいして「悪い事をするとあのようになるよ。」と言われる対象が近くにいるわけです。
先ほど皆様にお話したアウトカーストの人と、牛とが競合するのです。牛、馬、犬とかです。
動物から始まって人間の下と競合しながらこういうふうになっているという世界が現にインドにはあるのです。
その中での輪廻なのです。そうなるとやはり心ある人は、やはり輪廻というのはあるのだということで、輪廻を信じているのです。
信心深いのですね、インド人は。
インドという国自体が信心深いとも言えます。
もし、インドに行かれたことがない方はぜひ行かれて下さい。
大変興味深い所です。特にベナレスはよいです。
インドというのは仏教の故郷ですし、インド、ネパールというのはお釈迦様との縁があるところです。
また、ヒンズー教では、私達や皆様に限らず人間に生まれたのが良いチャンスだといっています。
ヒンズー教のバガヴァッド・ギーターは重要な聖典の1つです。
分かりやすい言葉で置き換えるならば、叙事詩ともいいます。
これは、サンスクリット語という古いインドの言葉で書かれた詩編なのです。
要するに戦争の叙事詩です。
ヒンズー教の神様であるクリシュナという神様がいます。
インドでは大変に人気がある神様です。その神様と、主人公アルジュナ王子がお話しているのです。
そして、神様と一体化し、人間が様々なことを遂行していくこと、人間の生きる道を説いた話なのです。
インドではこのバガヴァッド・ギーターは大変重要視されています。
そして、いま述べたことは、まさに仏教そっくりなのです。
仏教は、なぜヒンズー教と違うかというと、階級制をやめたところです。
生まれながらにこんな階級があるのはいけない、とお釈迦様はおっしゃったのです。ですから生まれながらにバラモンは無いんだということをいったのです。そして、努力してその人の行いによってバラモンになると、このような形で見事な説法をされているのです。
そして、ヒンズー教も仏教もいっていることは、ヒンズー教は私達や皆様に限らず人間として生まれたのがチャンスだと言っています。このチャンスを生かして良いことを繰り返してけば必ず次の世代では皆様や私達に限らず人はもっと良いところに生まれると言うことを言っています。そして、もっと良いことをすればこんな世の中では生まれていけない素晴らしい涅槃へ到達しきったところへいられる、という事を説いたのです。
私は、何回もインドに行っているからかもしれませんが輪廻は「ある」と思います。
たとえば、「ある」か「無い」かといわれた場合、皆様も輪廻はあると思った方がよいのです。
輪廻があると思った方が、これからの生き方が大変充実します。
もし、無いと思っている方がいるとしたら、虚しいです。
人生に対しての心構えを持つ
いま、いくら良いことをやってもこれは何の為になるんだと思う方がいます。
しかし例えば来世があるのなら、今やっていることが、来世に対して豊かな世界への貯金であると思うことができます。
もう一つの見方は、人は現在よりも来世の方が、これからのほうが長いのです。
ですから、そこから人間を修行して来なさい、と言われて修行の場として、人間としてあると思うことです。
子供は普通、お父さんとお母さんから生まれたのだと思うものです。
それも1つの捕らえ方です。
それから、両親も、自分達が産んだのだと思います。
それも1つの捕らえ方です。
でも、なにか親子間で問題が生じた時、自分が、自分が・・・と思うから腹が立つのです。
いま、私達や皆様の子供は、私達両親のところへ修行に来ているのです。
そのように思えば、子供に対する見方も違ってきます。
そして、こういう夫婦の間に、縁あってお前は修行に来たんだから頑張りなさいよ、ということを思えればもっと違う接し方、見方ができます。
そう思えれば、親も子供も、少しくらい苦労しても、修行なのだから頑張れるのです。
話というのはとらえ方です。
いろんな角度でとらえることが出来ます。
私達や皆様にとって一番大切なのは、経営の場合は経営哲学だとすれば、人生の場合は、人生に対しての心構えです。
皆様がそういうものをしっかり持っていると、人のいう事に左右されません。
朝から週刊誌とかテレビなんかを見て喜んで一喜一憂して、それでも飽きないでチャンネル回して、そのようなことばかりしている。それも悪いことでは無いのですが。
こういう日常のことも大切です。けれども、一番大切なのは人生に対する心構えです。
この人生に対する心構えは持っていても損は無いです。
周りで、問題が起こるのは当たり前です。
問題が起こらないと思うと逆に心配になります。
何か起こったらどうしようかな、今年はこれで年を越せるかな・・・などとクヨクヨ考えてもしかたがないのです。
現に今不況が続いているわけです。
たとえば、2、3年前まではウカレ騒いでいたけどもある日、突然分からなくなってしまっている人たちが一杯いるわけです。
そう考えると、一寸先は闇です。そんな時に、大切なのは、どんなときにも動揺しないだけの豊かな環境を自分の周りに作り上げておくことなのです。それは自分がしないといけないのです。その時の一番の中心となるものの考え方がこの般若心経の中にあります。
般若心経の全体像を見ていきます。
般若心経は毎日唱えるとよいです。
このお経の始まりに、懺悔文
仏教であまり懺悔とは言わないのですが、懺悔文というのは懺悔のことです。
これは大変立派なことです。
懺悔文
「我れ昔より造る所のもろもろの悪業は皆無始の
これは、人々が今までに犯した多くの悪い行いは、すべて始めもない過去の貪り、瞋り、癡にもとづいて、私のからだ、ことば、こころから生まれました。私は、それらすべてを、正直に仏様の前で懺悔します、と言っているお経なのです。
疑問に思った方がいると思います。
何故、懺悔しなくてはいけないのでしょうか。
何故、悔い改めないといけないのでしょうか。
それは、無始より、このかたというのは始めが無いということです。
宇宙開闢以来、私達の心には
無始よりこの方というのは宇宙がビックバンして150億年前からそして、生物の中から、地球が出来てから45億年まえから要するに生物の中に貪瞋癡がプログラムされているのです。私達の中にも貪瞋癡がプログラムされているのです。
貪瞋癡 とは何か
貪瞋癡とは何か言うと、貪(むさぼりの欲望)これは範囲が大変広いです。
仕事上におけるむさぼりの欲望、友人関係におけるむさぼりの欲望、家庭内におけるむさぼりの欲望、こういうものは肉体的にも精神的にもいろいろあります。物欲にもむさぼりの欲望が多い人がいます。愛情を一杯もらいたいと思ってむさぼる人もいます。むさぼりの欲望は
次に
これは怒りの欲望です。
怒ることにも原因が一杯あります。
何故怒るのかは、自分の欲望が達成しないと怒ります。
それが仕事上や家庭内で達成されない場合、友人関係の場、などいろいろあります。
この怒りの欲望も大変広いかたちでおきます。
そしてもう一つは
たまにはなまけてしまいたいと思うものです。
楽してもうけたい、手を抜きたい。
努力しないで何とかうまく過ごしたい。
こういうなまける欲望。
それから愚痴です。
不愉快なことなどが起こったときに愚痴を言います。
これを
そして総称して煩悩といいます。
煩悩とは要するに皆様方の心を悩ませるものです。
それを分解してみると貪瞋癡という基本的な真ん中に入ってくるのです。
この三つが心の中に常にあります。
ですから、これによって皆様方、人間の身、口、意がより生じるものなのです。
身、口、意とは身で行なう行為、口で行なう行為、心で行なう行為と言う意味です。
この身、口、意の仕掛け人が、貪瞋癡であると、このように言っているのです。
ですから人は基本的に悪いことをしているわけです。
むさぼりがあって、怒りがあって、なまける心で、この世と関わっているのですから、人は、自分のことしか考えていないのです。
また、知っていて行う貪瞋癡と、無意識に行う貪瞋癡があります。
そうすると三法というのが大切で、三法とは
ブッタ、ダンマ、サンガを三法といいます。
皆さんはこの三つの宝を持たないといけないのです。
ブッタに帰依するとは皆さんが月に1回お集まりになってブッタにこのお話を聞くこと。
それからダンマですが、ダンマとは寶です、つまり真理です。
サンガとは、そういう話を聞くグループです。
佛法僧の三寳に対して事ごとく懺悔します、悔い改めます、ということです。
懺悔文というのは大変良いお経です。
そしてそれに限らず人々のこういう罪悪を消して下さい、というのが懺悔文です。
仏法僧に帰依することによって、周りにおこなわれる苦しみ悩みを消してくださいと言っています。
この悩み苦しみはすべて
まわりで起こる厄介なことは貪瞋癡なのです。
隣のあの奥さんがいるから厄介なのだとか、あの友人がいるからうちはおかしいのだとか、子供がもう少し勉強してくれれば家はいいのだとか、全部自分の周りのことを言っている。これは違うのです。ここに貪瞋癡があるのです。私達、そして皆様ご自身の中に貪瞋癡が、ご自身の中に原因があるのです。この中に困ったと思うことが一杯あります。
悩み事が絶えない。
悩み事は絶えないはずなのです。
それは、多くの人々の貪瞋癡が常に悪い毒素を出しているからです。
これさえ止めればよいのです。
でも、これの止め方が分からないのです。
無意識のうちに出てきてしまうものもあるし、生きていれば意識的にでてくるものもあります。
お釈迦様の有難い言葉を聞く
貪瞋癡(とんじんち)を止めるには、お経というのは法ですから、お釈迦様の有難い言葉をこれから聞くことです。
しかし、その前に必ず唱えるのは、開經文です。
開經文
無上甚深微妙の法は
百千万にも遭い遭うこと難し
我今見聞し受持することを得たり
願わくは如来の真実義を解せんことを
これはこれからお釈迦様の有難い法を聞く前のあいさつ文です。
素晴らしいことを言っています。
無上甚深微妙の法は、とありますが、言葉に言い尽くせないような深い微妙な素晴らしい知恵の言葉、宇宙の真理ということです。
百千萬劫というのは、劫というのは時間を表します。これは要するにエベレストのような高い山に千年に百年に一回天女が降りてきて、天女の薄い衣でスーッと、その山を撫でてまた帰っていく。また百年後に降りてきてまたそれを撫でる。そしてこのエベレストの8000メートルが全部擦り切れても、壱合には達せない。考えられないほど遭うことが難しいです。それだけの時間をかけても遭うことが出来ない。大変な縁だということです。私達、皆様が釈迦の知恵に逢えるというのはそれほどなかなか遭(会)えないということです。
それが、今われ見聞し、とあります。
見聞という言葉が大切なのです。
見聞というのは、釈迦の知恵を見たり聞いたりすることです。
つまりこれをしないことには、多くの人々は常に不幸の中で一生を終わらなくてはいけないのです。
それは、生まれてから今までは、人々は
人間のエネルギーは貪瞋癡です。貪瞋癡でいくと失敗します。
人間はバカではないので一回失敗すると、あんまり我を張ってはいけないんだな、こうしたらいいんだな、と、その我を張らないと人に好かれたり、これで行こうとか、そしてまたやって失敗したりします。だんだんと自分の
ところが貪瞋癡というのはいつでも自分のことしか考えておりませんから、ここ一番の時は必ず自分のことを考えて動くのです。だから必ず最後で失敗するのです。気まずい思いをするのです。それによって自分の周りが常におかしなものが、せっかくこの間良くなったと思ったのにまた今日おかしくなるのです。人々は自分が出している貪瞋癡で分からなくなってしまうのです。
それで周りとの反応で何とか自分でしようと思ってますから、逆に心はいつも苛まれて、私が悪いんだけども次の手が打てないと、だんだんノイローゼになっていくのです。だから皆様に大切なのは貪瞋癡をうまく制御する方法を知っているか、それには仏法僧の知恵を見たり聞いたりしなければいけないのです。これをしない人はダメなのです。
見聞、つまり智慧を得とくするには三つあるということを覚えて下さい。
長い人生80年を生きるには常に豊かに生きなければいけません。
豊かに生きることは出来るのです。
それは日ごろの智慧(見聞)を会得すれば絶対できるのです。
知恵を会得するには三つの方法があります。
聞恵 見たり、聞いたりする耳で聞く知恵です。思恵 聞いた知恵を心の中で考えたり、心の中で整理することです。修恵 聞恵、思恵で得たものを、皆様の実践によって、自分の肉体的に会得することです。
皆様もそうですが、
そうなると、
このお釈迦様の智慧を聞いて、自分の生活環境をそれに合わせた動きにしていくと世の中が変わってくるのです。
そして必ず豊かになっていきます。確実に、経済的にも精神的にも肉体的にも前よりも、それ以前より、今の方が良くなっていきます。お釈迦様の話を継続して聞いたりしているのですから悪くなるはずはないのです。良い習慣をつけるとそれが、勝つのです。良い習慣を付けるには、般若心経というのが智慧の固まりなのです。それを聞恵で聞くことが出来るのです。般若心経というのはお釈迦様の知恵を体系的にすべて入れているのです。般若心経は10体系になっていますが、その10体系になっていることを知ると、全ての釈迦の知恵が般若心経の中に入っているのです。毎日朝、夕唱えて下さい。実践することです。
「摩訶般若波羅蜜多心経」とは
「摩訶般若波羅蜜多心経」を経題といいます。
般若と心経を取って般若・心経であり、本当は「摩訶般若波羅蜜多心経」という長いお経なのです。
それを縮めていっているのです。
もっと縮めると心経という言い方をします。
心経といえば般若心経のことです。
これの意味はマカープラジュナーパーラミターフリダヤスートラというのが、この梵語の原点です。
マカーというのが偉大なるという意味でそのまま(摩訶)にあたります。
プラジュナーというのが(般若)にあたりまして智慧という意味です。
真実を知る知。全体を直感的に認識することで、皆様の使っていらっしゃる言語で表現が出来ないのです。
分かりやすい言葉で表現すると、今見ているこのままを理解するという事です。
このまま理解するということは口では表現できないのです。
動いているものを動いたままに話すことは皆様に限らず人間出来ませんから、ですから世の中の事というのは全て断片的にしたときに真実でなくなってしまいます。つまり動いているものを動いている通りに理解するのをプラジュナーというのですが、これを人間は出来ないのです。それが智慧だというのです。
それをギリギリまでに何とかそういう動いているものを動いてる形に表現できないけれど何とかそれを近いことで代案を立てると、そこに縁が出てくるのです。縁というのが介在したときに初めて智慧というプラジュナーというものと少し違うんですけど似てる形のものに縁という言葉を使うと代替が出来るのです。まわりにあるこの世のものは全て関わり合いに寄って出現しているという進行形で状態があるのだという、これは宇宙全体で捕らえた真理と表現するギリギリのところで捕らえると縁ということになります。
釈迦は縁を知ることによって悟りを開いたのですけども、この智慧というプラジュナーは中国語に直すよりはこのままプラジュナーにしておこうということになったのです。古代インド語の方言でプラジュナーの事をパーニャといったのです。パーニャが般若という、これも音訳です。ですからこの般若という言葉はこれにはなんら意味はありません。
これもプラジュナーの音訳です。
次に(波羅蜜多)パーラミターですが、(波羅蜜多)パーラミターというのが古代インド語で訳すと完成という意味になるのです。
ところが当時の中国の完成とここでいっている完成は違うのです。
どう違うかといいますと、パーラミターというのはシガンというのは住んでいるいやらしい汚い世界。これをエド(岸)といいます。
ヒガンは浄土(岸)といいます。
綺麗な世界です。
それをトウヒガン、完成させる事をパーラミターというのです。
つまりこちらの岸からあちらの岸に行くことがパーラミタなのです。
当時の中国の完成という言葉にはこんなことはないものですからそれでは困ったということで、このまま音訳にして波羅蜜多という字をあてたのです。次がフリダヤですが、フリダヤは心臓のことです。ですから心のことで、これは直せるので直しました。次にスートラというのは、縦糸のことなんです。縦糸とはどういうことかといいますと、縦糸があるから数珠は108バラバラにならずにすむのです。
つまり、スートラとは縦糸のことで初めから終わりまで貫いていること。
つまり一つ一つが真理なのです。
真理も一つ一つではダメで、それが固まりになって繋がっていること。
これがスートラです。ですから「経」と訳すのです。
凡夫と菩薩そして仏
「摩訶般若波羅蜜多心経」というのは偉大なる知恵の完成の真髄の繋がったものであるということです。
これが般若心経です。
この般若心経は題一章のところで終わらせてしまいますが、第一章というのが大変重要なところになってきます。
最初の巻頭ですが「觀自在・・・・」般若心経は全部で274文字しかないのです。
その中でも最初の25文字で全ての結論をいっているのです。
その結論をいってから2〜10はその結論を噛み砕いて説いていくということなのです。
まず結論を先に言っているのです。
人間の人生は生き死にですから、なるべく早くこの般若心経を唱えた方にご利益を与えようということなのです。
この最初の25文字は悟りへと達するつまり幸せになるプロセスを完結にいっているのです。
「觀自在菩薩(ぼさつ)」が「觀自在菩薩(ぼさー)」となっているのはここは読みやすいほうの自由でよいとなっています。
これはどういうことかと申しますと、「觀自在菩薩」というのは観音様のことです。
菩薩というのは悟りへ向かうために修行している方を菩薩というのです。
悟りを得たいと思って熱心にこのページを読まれているあなたも菩薩なのです。
そして仏教は3つのランクしか無いのです。
凡夫とは
その次に、これではマズイというので、豊かな安心の世界に到達することを願って修行している方、つまり今のあなたのことを菩薩といいます。
そしてそれが到達した果実として仏です。
この3つのランクしかありません。
今、このページを熱心にごらんになっている方は凡夫とは卒業しているのです。
ただすぐ戻ってしまいます。
行ったり来たりしています。
凡夫の方が長かったりするのです。
このページを熱心にごらんになるときだけあなたは菩薩になるのです。
ですけどあなたがこのように熱心に勉強しているということは多分10分の1、20分の1実行していると思います。
菩薩行をやっているということになるのです。「觀自在菩薩」とは有名な修行者ということです。観音様とは素晴らしいお顔、慈悲深いです。この慈悲深い修行者。「行深般若・・・」とは行という字は実行するという意味です。何を実行したかというと、「般若波羅蜜多」を深く実行したのです。般若波羅蜜多を実行したというのは何かというと、六波羅蜜を実行したということです。六の知恵波羅蜜。つまり般若心経というのはギリギリのところで表現してますから、般若波羅蜜を実践したということは六波羅蜜を実践したということになります。
六波羅蜜とは何でしょうか。
- 布施波羅蜜
- 持戒波羅蜜
- 忍辱波羅蜜
- 精進波羅蜜
- 禅定波羅蜜
- 般若波羅蜜
これは本当は観音様が1〜6の波羅蜜をしたときにこのようになるのです。
代表して般若波羅蜜だけを書いているのです。
「照見」とは分かったということです。
照らし見たということは分かったということです。
「五蘊皆空」五つの蘊(固まりのこと)五つの固まりは皆、空です。
五蘊は色受想のことです。
色(しき)とは物質のことです。
受想行識とは、受けて考えて行なって認識する、ということです。
つまり生きとし生ける・・・ですから全てこの世に存在する方の周りにある物質的なものから、会社でのやり取り、親子でのやり取り、夫婦のやり取り、友人のやり取り、全部含んで五蘊です。この宇宙の全ては皆、空であると言うことなのです。
実態が無いということです。そして「度一切苦」一切の苦しみ悩みを、つまりこの世が空ということが分かることによって一切の苦しみ悩みから開放されます。
六波羅蜜を実践する
「觀自在菩薩」を観音様と第三者に捉えると、これは一切この話は他人行儀になってしまうのです。
「觀自在菩薩」を「私」と捉えるのです。
私達が一切の苦しみ悩みを渡りたければ、六波羅蜜を実践することなのです。
六波羅蜜を実践すると何が分かるかというと、この世の全てのものが空だという事が分かります。
この世の全てのものが空だと分かった時点で悟りの世界に入れるのです。
貪瞋癡(とんじんち)だけで、いくら「私」がこの世とぶつかって、反省してということを繰り返しても、所詮ここまでは行き着かないのです。
釈迦はありがたいのです。
一切の苦しみ悩みを無くすためには空が分かればいいのだと、釈迦は言っています。
では、空が分かるにはどうしたらいいのかというと、六波羅蜜をすればよいのです。
難しいことは無いのです。
- 布施波羅蜜
一番好きな物を相手にあげればいいのです。
何故、布施をするかといいますと、貪 を無くす為に布施をするのです。
貪なんか無くなりません。基本的に人間は、貪り貪り生きていますから。そして、貪る人はケチです。
貰う物は何でも貰うけどあげるのは大嫌いです。皆様方の周囲にもそういった人はいませんか。
しかし、人間は一番大切な物をあげることによって、貪りの気持ちが無くなるのです。
そこによって、苦しみから少しでも解放されるのです。
お金に困っているとしたら、今ある半分でもいいから帰りにお賽銭箱に入れていてください。
家へお帰りになると倍になっていますから。
ところがそうはいかないです。
半分置く、全部置く、という気持ちが次から豊かさを招くのです。
心のなかに入ってくるのです。
逆に言えば、ぎゅっと抑えている気持ちが不幸へだんだん突っ走るのです。
だから布施波羅蜜をしなさいと言っているのです。
もしくはお腹が空いて何か食べたいと思ったら半分あげる。
全部あげる。そういう事をすることによって、自分の貪 というものを、裏には貪は正常なのです。
布施は以上なのです。こう考えると。貪が正常なのです。
だからそこで第一番目に布施するということは、それ以上の行為です。
何故かというと貪があるから布施波羅蜜があるのです。 - 持戒波羅蜜
これは戒律を守ることです。
つまり皆様は人生としてのやるべきことを守りましょう、ということです。
十善戒を守りましょうということを言っています。 忍辱波羅蜜
忍辱とは屈辱に耐え忍ぶことです。
皆様に限らず人々にとってこれは大変です。
馬鹿にされても有りがたい・・と思うことです。
皆様が一生懸命相手のことを思ってやってあげたのに反対のことで返ってくる。
そういう時に頭に来ない、ということです。
忍辱波羅蜜は何故あるかというと、その裏には瞋 があるからです。
怒りたいのが人間ですから、すぐに頭にくるのです。
しかし、絶対に頭にきてはいけない、というのが、忍辱波羅蜜です。
例え馬鹿にされても、相手は私の行為が分からないんだと思って、怒りを抑えるのです。
怒りを抑えるためには忍辱をしなければいけないのです。- 精進波羅蜜
これは努力のことです。良いことを実践して、悪いことは辞めるという基本的なことです。
良い芽を出して、悪い芽は出さない。これが努力です。
これが大嫌いなのが癡 なのです。
布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜の4つに、人間の最も基本的な欲望の制御するシステムが組みこまれているのです。 - 禅定波羅蜜
瞑想のことです。
瞑想とは難しいと思っているかもしれませんが簡単なのです。
心を整理整頓することなのです。
心を整理整頓するということは、布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜までをやってないと禅定波羅蜜は無いということなのです。出たら目をやってて、ただ座ってて、何かいいアイディアはないのです。ですから、布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜までの行為をした方が、心静かに整理整頓するとそこから素晴らしいものが湧き出てくるのです。
それが智慧となるのです。
これをみごとに素晴らしい六波羅蜜という行為で規制するのです。
ですから六波羅蜜をすればこの世の真理をはかることができます。
この世の真理とは何かというと空ということです。
この世の全てのものが空だということが分かるのです。
空の反対は無です。
無というのは分別、頭の中で決めていることです。
それを無というのです。
頭の中でこうだろと思っていてもダメなのです。
こういう正しい悟りへの実践活動をするとこの世の中が全て見えてくるのです。
見えてくるとそこにこの世に実態が無いんだと分かります。
そうすることによって一切の苦しみ悩みから開放されます。
般若心経を読受し耳から聞くこと、口で般若心経を唱えること、写経で書くこと、そして内容を理解することこれらを揃えていけば、必ずこれから豊かな生活が約束されます。現世でも幸せであり、来世に行っても幸せであります。
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